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NO.1「職業奉仕」
先ごろ奈良の町を散策中、興福寺の境内の掲示板に冊子が張られていた。
普段なら見過ごす所を、その日はなぜか小さな文字を読み進み、知らずのうちに引き込まれていた。
そこで寺の事務所に行き冊子を拝受。興福NO138号、貫主、多川俊映老師の巻頭文章を失礼ながら抜粋させて頂く。
《職業奉仕の意味を改めて問おう》興福寺貫主、多川俊映老師
「初冬の十一月二十日、第十六回浅見正州の会が催された。今回の出し物は現在能の「鉢木・はちのき」だった。
「鉢木」は人気曲だが、この現代能楽界の名手はまだ一度も上演したことがないというので、いつだったか、−−−真州
さんの、佐野の源左衛門常世を見たいですねえ、とかなんとかいった憶えがある。
それが今回の上演を多少なりとも促したのかどうかはともかく、一族に所領を簒奪された常世(シテ)は零落しつつも、豊な
詩情を湛えていて美しかった。
その前場の見どころは、大雪に行き暮れた旅僧(ワキ、実は執権北条時頼)にみせるもてなしの心であろう。夜寒に、秘蔵の
梅、桜、松の盆栽を雪打ち払って切りくべるのだ。
その炉辺で常世は、平素のわが覚悟を披瀝する。−−−−このように落ちぶれてはいるけれど「只今にてもあれ鎌倉に御大
事あらば、ちぎれたりともこの具足を取って投げかり、錆びたりとも長刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番にはせ
参じ」るのだ、、、、と。
後場はその常世の覚悟が試され、ついに執権時頼から所領を回復されるというハッピーエンドだ。その能らしからぬ終わり
方に、後場不要論なぞというものがあるらしい。が、それはそれで楽しめばいいのだとと思うし、また、じっさい感情移入
できる好演だった。ただ今回の能「鉢木」を見終わって、ある種の居心地の悪さというものわも感じるのだ。それは端的に
いって、佐野源左衛門常世が示す<人としての矜持>あるいは<職業意識>と、私たちの社会におけるそれらとの甚だしい乖離
のためだ。そのあまりにはげしい落差に、真州演ずる常世の清冽さがいっそう引き立ちはするが。
今年はそれにしても、食をめぐる数々の事件や騒動が世間を揺るがしつづけた。もはや偽装ともいえぬ腐臭さえする食材を
再利用していたというビックリ仰天をふくめて、つぎからつぎへと明るみに出た食関連の不祥事は、ついに老舗の高級料亭
にまで波及した。商売だから、利益は追求しなければならない。しかし、おのずとふみ越えてはいけない一線というものが
あるし、きちんと良質のものを提供する自負と喜びというものもあるだろう。
そういうまっとうな職業意識、また、それを下から大きく支える人としての矜持が拡大路線や拝金主義にこうべを垂れたの
であれば、残念という他はない。近年、各種のボランティア活動が活発になり、そうした直接的な社会参加ないし社会奉仕
がとにかく注目される。団塊の世代が続々とリタイアする状況が、それにいっそう輪をかけてもいるだろう。それはいいが、
その一方で、他ならぬ自分の職業を通して社会に奉仕するいわゆる「社会奉仕」もあるのだ。そういえば、ちかごろ職業奉仕
というコトバをとんと聞かない。
私達の社会は、その重大な意味をもう一度改めて問う時期に差しかかっているのかもしれない。
いやーーー納得です。