この言葉に注目


NO,3「自然と人間界の接点」井上隆雄(写真家)
自然界と人間界との「接点」が妙に気になりだしてから、およそ20年。山地への旅の時々にカメラを向けてきた。「接点」とは
、私にとって自然の自然(じねん)と人間の意識が出合い、象(かたち)が生まれる場所。接点の数々は「一如」の情景や結界
の関係でもある。この度の東日本の大災害は、自然と人間との根源的な関係や意味を問われるものだろうか。地震、津波、原発
事故。その直接の報道の中で、関係者が「想定外の」という言葉を多用した。その表現は多方面から納得されなかったばかりか、
想定外という非常口を設けた考え方は、自然の無限大ともいえる法(のり)を忘れた経済性や技術の危うさとも感じられてなら
ない。人間側の一方的な概念や定規から導かれた自然に対する想定が、痛ましい限りの現実として露呈したのであった。
自然界の様相や現象は無辺無量。もともと人間の概念で捉えきれるものではないのだろう。あえて私は「自然感」に立ち、感性
への響きや働きの世界を大事にと思ってきた。鎌倉時代に京の大地震を体験した法然や親鸞の「自然法爾」の思想、そしてまた
鴨長明の『方丈記』のなかの「無常観」からも伺える自然と人間との関係や精神性は、日本の精神文化の見過ごせない基層とも
いえる。近年、多方面で「自然」に意識が注がれつつあり、考え方や美術表現にも多く顕われてきた。
とはいえ、スーパー林道を駆け抜ける車窓から自然や、液晶画像から想像する風光などには、そのままの臨場感や気配は香って
はこない。かつまた、人間界の真っ只中である都市空間から自然界を推量することは、ある意味無謀とも。
現代人は自然と直に接し、心や感覚を豊かに遊ばせる機会が実に乏しくなってしまった。
溢れかえる物質や経済原理の混沌とした現実の中で、人間もまた自然界においての存在であるという認識から遊離しつつあるの
か、とも思う。山や海へ畏怖畏敬を感じてきた自然観や宗教性と人間中心の現代的分別に、ある断層すら感じてしまう。自然界
の輪廻に委ね、山辺や海辺でそのままに咲く野花は、現代人の果てなき我執をどのように眺めているのだろうか。人々の心身は、
今、自然から呼びかけてくる透明な音色に気付かねばならないのだろう。




NO.2「南方熊楠没後七十年」2011年6/11 京都大学名誉教授 上田正昭
《天眼》
東日本大震災の中で、あらためて想起した二人の先学がある。一人は昭和十(1935)年12月に亡くなった傑出した物理学者
の寺田寅彦であり、他の一人は昭和十六年の12月にこの世を去ったすぐれた生物学者・民俗学者の南方熊楠であった。
寺田は最晩年の論文「日本人の自然観」の中で、ヨーロッパの学問は自然と対決して発展してきたが、日本の学問は自然と
調和する智恵とその体験を蓄積して発展したきたと述べた。戦後の日本の学問は自然と対決し、自然を克服することを目指
す科学万能の道を邁進してきた。
南方は自然を畏敬し、自然と共生することがいかに大事であるかを熟知していたが故に、明治三十四年(1901)年からはじ
まる明治政府の神社合併に敢然と反対して、聖なる樹林の保全のために孤軍奮闘した。明治政府による無謀な神社合併が、
明治三十九年から始まったとする通説はあやまりで、和歌山県では明治三十四年、三重県では三十六年のころから実際に神
社合併が実施されていた。南方熊楠は明治四十五年の『日本及び日本人』(四〜六月号)に「神社合併反対意見」を発表し
て、鎮守の森がいかに「人民融和」の場であり、「自治機関の運用」にとって不可欠であるかを見事に指摘した。貴重な動
物や植物が生息し、古くからの伝承や民俗芸能をはぐくんできた鎮守の森は、熊楠にとっての「勝景史跡」であった。
南方熊楠を筆頭とする有識者の努力によって、大正七(1918)年の三月、ついに衆議院は「神社合併無益」の決議を採決し
た。しかしその間に十九万ばかりであった神社が十一万に減少したことも見逃せない。
エコロジー運動の先覚者であり実践者であった南方熊楠が黄泉路へ旅立ってから本年で七十年になる。
そこで、フロンティアエイジ「探検塾」が、去る六月四日、エル・おおさか(大阪市)で、没後七十年を記念する講演会を
開催した。招かれて「南方熊楠の学問と理想」をテーマに出講したが、地元和歌山市・田辺市をはじめ各地から多くの方々
が相集って、会場は満席となった。
若き日にアメリカ・キューパ・イギリスに渡って独力で学び、明治三十三年(1900)年に帰国したが、翌年の二月にはロン
ドンで親しくなった中国革命の父孫文が南方熊楠宅を訪問して懇談している。帰国した熊楠は、紀州熊野の森をフィールド
にして、地球規模のグローバルでしかもローカルな、私どものいうまさにグローカルな生物学と民俗学を構築した。
鶴見和子さん・神坂次郎さんらと共に南方熊楠賞の選考委員となり、初代の委員長をつとめた後、第十回の南方熊楠賞を日
高敏隆さんとならんで受賞した日を懐かしく想起する。南方熊楠は自然と人間の共生(ともう)みをめざした巨人であった。




NO.1「職業奉仕」
興福寺貫主 多川俊映老師
《職業奉仕の意味を改めて問おう》興福寺貫主、多川俊映老師
「初冬の十一月二十日、第十六回浅見正州の会が催された。今回の出し物は現在能の「鉢木・はちのき」だった。
「鉢木」は人気曲だが、この現代能楽界の名手はまだ一度も上演したことがないというので、いつだったか、−−−真州
さんの、佐野の源左衛門常世を見たいですねえ、とかなんとかいった憶えがある。
それが今回の上演を多少なりとも促したのかどうかはともかく、一族に所領を簒奪された常世(シテ)は零落しつつも、豊な
詩情を湛えていて美しかった。
その前場の見どころは、大雪に行き暮れた旅僧(ワキ、実は執権北条時頼)にみせるもてなしの心であろう。夜寒に、秘蔵の
梅、桜、松の盆栽を雪打ち払って切りくべるのだ。
その炉辺で常世は、平素のわが覚悟を披瀝する。−−−−このように落ちぶれてはいるけれど「只今にてもあれ鎌倉に御大
事あらば、ちぎれたりともこの具足を取って投げかり、錆びたりとも長刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番にはせ
参じ」るのだ、、、、と。
後場はその常世の覚悟が試され、ついに執権時頼から所領を回復されるというハッピーエンドだ。その能らしからぬ終わり
方に、後場不要論なぞというものがあるらしい。が、それはそれで楽しめばいいのだとと思うし、また、じっさい感情移入
できる好演だった。ただ今回の能「鉢木」を見終わって、ある種の居心地の悪さというものわも感じるのだ。それは端的に
いって、佐野源左衛門常世が示す<人としての矜持>あるいは<職業意識>と、私たちの社会におけるそれらとの甚だしい乖離
のためだ。そのあまりにはげしい落差に、真州演ずる常世の清冽さがいっそう引き立ちはするが。
今年はそれにしても、食をめぐる数々の事件や騒動が世間を揺るがしつづけた。もはや偽装ともいえぬ腐臭さえする食材を
再利用していたというビックリ仰天をふくめて、つぎからつぎへと明るみに出た食関連の不祥事は、ついに老舗の高級料亭
にまで波及した。商売だから、利益は追求しなければならない。しかし、おのずとふみ越えてはいけない一線というものが
あるし、きちんと良質のものを提供する自負と喜びというものもあるだろう。
そういうまっとうな職業意識、また、それを下から大きく支える人としての矜持が拡大路線や拝金主義にこうべを垂れたの
であれば、残念という他はない。近年、各種のボランティア活動が活発になり、そうした直接的な社会参加ないし社会奉仕
がとにかく注目される。団塊の世代が続々とリタイアする状況が、それにいっそう輪をかけてもいるだろう。それはいいが、
その一方で、他ならぬ自分の職業を通して社会に奉仕するいわゆる「社会奉仕」もあるのだ。そういえば、ちかごろ職業奉仕
というコトバをとんと聞かない。
私達の社会は、その重大な意味をもう一度改めて問う時期に差しかかっているのかもしれない。

いやーーー納得です。